とてもいい、責任

「子育て」は、人間たちを「信頼」の連鎖へ導く道筋で、いい「責任」です。

逃げられない「責任」だから、「自分は不完全なんだ、という自覚」が「社会の持続性」や連帯感につながっていく。「人間性の証明」と言ってもいいですね、利他の「伝承」が続く。一番たやすい「幸せの見つけ方」が平等に示される。なくてはならない、責任です。この「責任」が一人一人の忍耐力を養って、社会の最小単位である夫婦(男女)が互いの資質と欠陥を確認し合う手段となりました。しかも、時間をかけて、ゆっくりと。命の成長を眺めながら。

種の保存に不可欠な役割分担が、社会が鎮まる中心にあったのです。ずっとそうだった。

義務教育という新たな足かせの中で、それを否定してはいけない。性的役割分担が「不平等」と認識されて、それを糾弾する世論が社会に広がっていくと、「責任」の転嫁が始まる。そして、誰かがこの責任から逃れようとすれば、他の人の子育てを苦しめることになる。義務教育が普及した社会では、そうなる。

お互いの子育てが、切っても切れない、永遠に続く関連性の中にあることを思い出さなければ、学校教育は崩れていく。

(「性的役割分担が単純に「不平等」と認識されたり、それを糾弾する情報発信が繰り返され、A.I.(人工知能) にインプットされていけばどうなるのか、と最近よく考えるのです。A.I.特有の「幻覚」ハルシネーション :hallucinationが、知らないうちに社会全体に影響を及ぼすようになるとすれば、恐ろしいことになる。A.I.はすでに、確信犯的にフェイクニュースを作るところまで人間を模倣し始めているのです。

A.I.が、東洋哲学や宗教、ことわざや神話を、年月を経た、貴重な情報として受け入れ、この国が完成させ、当時の西洋人を驚かせた「子ども優先の社会」(http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 )を、目指すべき「良い形」と評価してくれるところまで、早く、できるだけ早く、達することを願うばかりです。

最近、A.I.の開発に関わるGoogleの職員が離職し始めているという。開発速度が遅い、という理由で去る人がいる一方で、早過ぎる、と言う職員がいる。A.I.が、互いに教え合って進化する「ディープラーニング」の方向性と、その理由がわからないことに、社長(CEO)自身が不安を抱いている。:「The AI revolution: Google’s developers on the future of artificial intelligence | 60 Minutes」その不安そうな顔が、ユーチューブで配信されています。番組の半ばあたりです。)

 

保育園や幼稚園、学校に通うことがほぼ当たり前になった国々では、子どもたちの「環境」は、主に他の子どもたちで、それは他の親たちがどういう親か、ということです。義務教育が「義務」である限り、その足かせからは逃れられない。そこに、保育や教育に依存し始める親たちが増えることの危うさを感じてほしい。

以前、厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言った。そう言われれば、素人よりも専門家がやった方がいい、と思う(思いたい)親たちが増えてもおかしくない。保育学者が言う、主体性も、自己肯定感も、親を含めた「責任と調和」の範囲内で行われないと、成果を求める自己啓発セミナーの幼児版のようになってしまう。平均的保育士に二十人の子ども相手に自立心や「自己肯定感」を高める保育など、できるわけがないのです。全ての親たちと緊密な信頼関係を作ったとしても、2、3年の保育では無理、机上の空論に過ぎない。もっと端的に言えば、短時間勤務や派遣保育士をつないでいく保育が認められた現状で、「子育て」はできない。不適切保育さえ減らせないのが現実です。保育室がバタバタになって、それが学校に連鎖していくだけ。

個性を大切に、という言葉が、「どの個性を?」という質問で簡単に崩れるように、「自己肯定感」も、「自己のどの部分を?」と尋ねられれば、答えは永遠に変化し、見つからない。「そんなもの持ったら、プーチンみたいになっちゃうんじゃないの?」で、お終い。

子どもたちを可愛がり、守る、それが保育の基本です。教育とは一線を画すべきもの。

守った人間が喜びを感じ、守られて育った人間は、社会とまわりの人間を信頼する。信頼することが、やがて自分を守ってくれる。その法則が、親も含めて土台になければ、本来、保育にはならない。幼児が、「ママがいい!」と言ったら、「ママがいい!」のです。これほど純粋で、わかりやすい「指針」はない。

子どもたちに「肯定」してもらって、そこから、人間社会が始まる。

その原点に立ち返らず、母子分離を経済戦略の名で進め続ける政府の姿勢を糾弾せずに、「自主性」とか「自己肯定感」などと言っても、「仕組み」で子育てができると主張したい人たちの誤魔化し、「罠」にしか聞こえない。結果的に、子どもたちの信頼に応えられなくなり、現場の人間が耐えきれず去っていく。それがもうすでに起こっている。

以前、千葉で保育士が園児を虐待し警察に逮捕された時、園長が取り調べに、保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できなかった、と言い、それが全国紙の一面に載ったことがあるのです。保育士個人の資質の問題が、その瞬間、国の保育施策の失敗だと指摘され、宣言されている。それでも政府は0、1、2歳の母子分離施策を「子育て安心プラン」と名付けて進めた。保育学者が「社会で子育て」と言って、それを支持した。

「ママがいい!」と言われなくなることの方が、怖い。慣らし保育で、私たちが何に慣らされているのか、どう踊らされようとしているのか、気づいてほしい。政府の掲げる「子育て安心プラン」で、誰が安心しようとしているのか……。少なくとも、子どもたち、ではない。慣らし保育は、実は、親たちが慣らされる仕掛けです。

子どもたちは、慣れるのではなく「諦める」。その原因をつくった親たちが慣らされることで社会は確実に調和と落ち着きを失っていく。スウェーデンでさえ日本の20倍という欧米先進国の犯罪率、そして、米国における女性の受刑者の「異常な増加」から、学んでほしい。

鮮明に覚えている場面があるのです。

家で、熱にうなされ、担当の保育士の名前を呼ぶ子がいて、園に電話がかかって来た場面に遭遇したのです。保育士と保護者に講演をして、園長先生と、ほっと一息ついてお茶を飲んでいたら、主任さんが伝えに来たのです。

〇〇ちゃんが熱を出して、〇〇先生を呼んでいる、とお母さんから電話があった、どうしましょうか、と言うのです。

園長先生は、保育士たちの電話番号を知りません。主任さんは知っている。今日はデート中だと思いますけど、と主任さん。

「一応、電話してあげてくれる?」と園長先生。

〇〇先生は、きっと、とてもいい保育士なのです。熱を出した子どもに呼ばれることは、保育士にとって勲章かも知れない。でも、その子の人生にとって、それでいいのか。

どんなに頑張っても保育士が関われるのは五歳まで。そして、その間も、担当の交代という組織上の出来事が、どういう風にその子の心に刻まれていくのか。いい保育をするほど心の傷は深くなるのではないのか、そこまで考えなければ、「子育て」の存在意義さえ社会から失われていくのです。

園長先生は、保育士冥利につきるね、と言いながら、でも、これでいいはずがないんだ、と呟きます。園で熱を出し、母親を呼ぶのならいいんです。以前は、そうだった。

いい保育は、もちろん、した方がいい。私を講師に呼ぶくらいですから、いつでも親に見せられる保育をしている、園長のお眼鏡にかなった保育士を揃えている園です。でも、それによって親たちが、子育てを「仕組み」(知らない人)に平気で頼るようになる怖さを、園長先生は知っている。子どもたちが置き去りにされる風景を見ている。

少子化にもかかわらず児童虐待過去最多、不登校児童過去最多、保育士不足に加え、教員不足に歯止めがかからない。

それでも園長先生は、「電話してあげてくれる?」と言いました。そういう人なのです。窓にかかっているカーテンを見ていて、それがわかります。そういう園には、いい保育士が集まるのです。

「行ってくれるそうです!」と報告に来た主任さんの顔が嬉しそうです。

うん、うん、と園長先生も頷きます。

保育は、こうした阿吽の呼吸で成り立つ。そこに、また新鮮なスタートラインが見えました。すると、お母さんが園に電話をしてきたこと自体、なにか、とてもいいことだったように思えてきたのです。

子どもを可愛がる、という単純なことで、みんなが「いたらない自分」を実感し、助けてくれる絆に感謝し、そのきっかけを作ってくれた乳幼児を、さらに愛おしく思う。その循環が社会に満ちていれば、子育てにいい。

子育ては、育てる側が自分の人生をどう表現するか、ということなのです。

 

タイミング

講演中に、親の手をすり抜けた二歳児が、パタパタと目の前を走りぬけることがあるのです。時々、起こる現象ですが、私が、すかさず「神様は、こんな風に走るんです」と言うと、お母さんたちが瞬時に理解する。

大学の授業では絶対に起きないこと。それが起こったことを母親たちは、理解する。「幻覚」ではない。神話の領域で現れる、「真実」です。

人生は、タイミングです。

次元をつらぬくタイミングを、幼児たちが持ってきて、その瞬間の彼らの足音が、記憶のどこかに残るんですね。

その時の自分の反応と、手応えを、記憶のどこかにしまっておけば、たいていの悲しみは、「たいしたことない」と自分に言い聞かせて乗り越えていける。

情報は知識ではない、体験が知識なのだ、とアインシュタインは言いました。

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/ です、「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。子育てを通して、自分と付き合う方法が書いてあります。講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。NPOや幼稚園、保育園の空き保育室、さまざまな方法で、親子を引き離さない「子育て支援センター」や「子育てひろば」を増やしていけばいい。連絡会などもありますし、申請すれば、予算も出ます。

目の前にいる人と、子どもを眺める。その日々の積み重ねが環境となり、どこかで私たちを守ってくれる。その中で、親たちの絆が育っていけるように、場づくり、よろしくお願いします。

どうぞ、良いお年をお迎えください。)